憲法や人権って言葉はよく聞くと思うけど、人権にも色々な種類があります。
そもそも歴史的に見て、憲法は、国が国民の自由を制限しないように作られました。
例えば、憲法19条の思想良心の自由。国民は本来どんな思想を持っても自由なはず。でも、国家が「その思想はダメ」と言って、国民の自由を弾圧してきた歴史があるんです。例えば、戦時中には、国民は、洋楽を聞くことも国から許されていなかった。「洋楽サイコ―」と思うことも許されていないかったんです。
こういう本来国民の自由なのにってことを国が規制してこないように定められた人権には憲法上強い保護が与えられています。経済的自由だったり、政治的宗教的な自由だったり、それらに関連する人権です。いわば、人権は、国からの干渉を防ぐための国民の盾なんです。ここでは国は、なにかをするってことではなくて、何もしないことが求められるわけです。これを人権の中で、自由権って呼んだりします。
一方で、自由だ自由だと言うと、そこから漏れてしまう人も出るんです。例えば、自由経済でね、稼ぐも稼がないのも自己責任だ、これが資本主義社会の考えです。でも頑張っても頑張っても稼げない人もいるわけで、稼いでいても一度の失敗で廃業して生活できなくなる人もいる。自由だけでは社会はぎすぎすする。そんなときに国は指を咥えて見てないで、国民を助けてあげてよって考えが生まれているんです。これが憲法に保障されている社会権、国になにかしてよって求めていく権利です。
さっきも言ったように、もともとは、人権ってのは、国に国民の自由を制限しないで、自由にするからほっといてという権利なんです。それとは違って、国になんかして、助けてって言っていく権利が社会権です。こんな立ち位置なので、社会権は、国の財政事情だったり、国の政策判断だったりによる、保障の度合も自由権よりも弱いものとなっているのです。
そして、その社会権の代表格が生存権なのです。
生活保護受給者への支給額を物価の下落率などを考慮するなどし、光熱費や食費などの「生活扶助費」の基準額を最大で10%引き下げたことを憲法違反だと争った訴訟で、裁判所は、憲法違反ではありませんとしました。
その裁判で、裁判所は、基準の改定による引き下げは、厚労相に「専門技術的かつ政策的な見地からの裁量権がある」と指摘しました。裁量権は、判断の余地、その人に任せられていますよってことです。
このように裁判所が回答したのは、生存権の社会権的性質によるものなんです。